火曜日, 7月 02, 2013

江戸近郊道しるべ (村尾嘉陵著)

 たまたま本屋で見つけた「江戸近郊道しるべ」(講談社学術文庫)という本を読んでいます。村尾嘉陵という武士が江戸近郊を歩いて回った見聞記で、お散歩BLOGの江戸時代版という感じ。日本橋浜町にある自宅を起点に、東西南北日帰りで行ける範囲をほとんど歩き尽くしています。
 その中で、面白い記事を見つけました。

 先日バラを見に行った国府台公園にある明戸古墳には、国府台合戦で戦死した武将・里見弘次の墓とされる石棺がありました。また、里見弘次の娘の悲しみが乗り移ったとされる夜泣き石もあったのですが、現地の解説ではどちらも史実とは異なる伝説だとしていました。
 村尾嘉陵も国府台城趾を訪ねて石棺と夜啼き石(本書では啼の字を使用)を見ています。そして、石棺には日本武尊が置いた槨という説があるが、そんなに古いものではないだろう、夜啼き石については鬼哭を聞いた僧が掘り出して享保2年(1717)に供養したものらしい、と書いています。彼が訪れたのは、文化4年(1807)でした。
 今でも月のない雨の夜には合戦の声が聞こえることがある、と書いていますが、夜啼き石や石棺と里見氏の関連については特に言及していません。

 里見の名を一躍有名にした南総里見八犬伝の最初の話が刊行されたのは文化11年(1814年)でした(天保13年(1842年)完結)。里見軍戦死者の亡霊を供養する「里見諸士群亡塚」「里見諸将霊墓」が建てられたのが、文政12年(1829)。「江戸名所図会」が明戸古墳を紹介して「里見弘次の墓という説は誤り」と書いたのは天保7年(1836)です。
 断定はできませんが、里見伝説の背景が見えてくるような気がします。

 なるほど、古文書から歴史をひもとくとはこういう事なんだな、と学者になったような気分を味わった体験でした。

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